隠れて生きよ ~いのいぬ.com~

漫画描きが、漫画や絵の事、作品レビュー、セミリタイアや哲学などについて書いてます

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楽しむという資産

アンダーマイニング効果で、絵や漫画を描く事があんま楽しめなくなってるって話を少し前に書いた。

楽しむってのは資産だと思う。

これは、金では買えない。

これを大事にしたい。

SNSやネットの依存性や、お金や承認などの執着は、人間の行動を支配してしまう。

しかし、そこに純粋な楽しさは存在しえない。

純粋に楽しめるものを大事にしたい。

自己欺瞞ではなく、純粋に、本心から楽しめるものを大事にしたい。

もしかすると、それは僕にとって絵や漫画を描く事ではないのかもしれない。

絵で収入を得ようとする前は音楽をやっていたけど、就活間近でこれは食えないと思ってやめた。

もしかすると、というのは頭をよぎるけど。

行動を起こすほどの力は残ってない。それに、ただ現状のマンネリから逃れたいだけの考えかもしれない。

楽しむってのも、難しいもんだなと思う。

自分の事を理解することは、なかなか難しい。

金持ちキャラは、清貧が不相応になる

自由という不安定さ

自分で自分を縛る。自己欺瞞というのは誰にでもある。

サルトルは、「人間は自由の刑に処されている」と説いたので有名だけど

この自由とはなにか。

それは「何者にもなれない」という事を自由、としているらしい。

無とも表現されているとか。

つまり、とどまることができないのが人間であるという事だ。

そのふらふらとした自分を、不安定な自分という苦しさをこう表現したのだとか。

選択の辛さとして考えられる事もあるが、一生安定できないと説いた方がその言葉の重みを感じる。

不安定という辛さ

しかし、一方人間は安定したい生き物だ。

自分がどういう人間であるか、自分で決めるのだ。

しかしそれも一時的なもので、常にふらふらとしている。

ある人の前ではある種の自分を演じ、

別の人の前では別の自分を演じる。

このTwitterアカウントではこんな自分を演じ、別のアカウントではまた別の自分を演じる。

そして自分はこういう人間であるという、自分自身をも騙し自己欺瞞に浸る。

そうやって沼にハマる。

清貧が認められない人間

マクロ経済的な合理性についてはスルーするとして

僕は清貧思考が好きだ。足るを知るとか、中道とかそういうのが好きだ。

過ぎたるは及ばざるが如し。というし、人間の欲にはキリがないのだから、ある程度線引してしまった方が楽に生きられる。

コスパが良い方が楽だと思っている。

だけど、自己欺瞞にハマる瞬間がまったく無いのか、と言えばあるようにも思う。

たとえば、今Twitterはクリプトアカウントになってしまったが故に、フォロワーの情報に反応しているように思う。

特にお金も使ってはいないが、なんだかここにいるとそれなりに使ってる感じ出してないとだめなんじゃないかなー、みたいな気分になることもある。

これはエゴだと思うし、自己欺瞞だ。

自分にある種の役柄を設けて、その場での立ち振舞をどうするか考え試みている。

この役柄が「金持ちキャラ」になってしまっては厄介だなと思う。

金持ちは3足500円の靴下を買うのだろうか。

金持ちは車を持っているのではないだろうか。

金持ちは高級車のエンブレムと一緒にスタバのコーヒーを移して、何気に金持ちアピールをするのではないか。

そんな事を考え実践し始めたら、一体なんのために生きているのかわからなくなってしまいそうだ。

誰にどう観られていようが関係がない

誰にどう観られていようが関係がない。

誰かにどう観られたいかと考えることはエゴイスティックだ。

しかし、何度か書いたが、真のエゴイストはダライ・ラマが言う通り「他人にあたえる人」だ。

自分自分では結局エゴは満たされない。

エゴと自己欺瞞が悪い方向で重なれば、清貧を貫けないだろう。

レンチンさつまいもが主食も兼ねて最強のオヤツになる人生のまま終えたい。

なんか謎のカタカナのオヤツや、分厚い肉の写真をSNSにアップして虚栄心を満たすようになっては

それこそ、永遠に満たされはしない。

足るを知る人生でありたい。

余ったお金は家族や知人のためにでも使えばいいし、今ならウクライナにでも寄付すればいい。

所詮金は金。

無いと困るが多すぎても役には立たない。

事実、金持ちが満たされているなら、つまらない自慢をするためにSNSを利用する時間もっと有意義な事をするだろう。

人間は金では満たされない。

外的なものでは人は満たされない。

自分が自分に嘘をつくのをやめ、ふらふらとして何者にもなれない無力さと

いずれ死ぬという無常をを認め

ただ目の前の事に集中して生きるしかない。

虚しいが、人間なんて、ただ生まれて朽ちるだけの現象でしかない。

親より先に死にたいと思う

こういうどうしようもない人間でも

別に天涯孤独というわけではなく

肉親がいたりする。

結婚をするつもりはないし、現在も生きている家族は両親と姉。

姉はもう結婚して県外にいるし

僕自身1人で暮らしているので

親が死んだところで、なにか生活が極端に変わるという事ではないのだけど。

親が死ぬという事に、自分は耐えられるのだろうかと思ったりもする。

できるだけ、しんどい思いはしたくない。

愛別離苦というのは、四苦八苦の後ろの4つの中の一つだ。

親しい人やモノと離れる事。

死はそれを永遠にしてしまう。

本当に生きるというのは厄介だと思うが、こういうイベントからは逃れようがない。

自分が先に死んでしまう事しか、逃れる事はできないし。

それをやってしまえば、ただ苦しさを親に押し付けてしまうことになる。

だから僕は親が生きてる間はまだ生きていようと考えて、生きてきた。

しかし、歳を重ねるにつれて、親がいつかは死ぬのだという事実が現実味を帯びてくる。

僕自身も健康なわけではないし、いつかは死ぬ。

もしかすると僕の方が早いなんてことも無いとは言い切れないのではあるが

親が死ぬという事に自分はどういうショックを受けるのだろうかと、心配をしてしまったりもする。

マルクス・アウレリウスは、戦争で子供を失っている。

先人たちが耐えられたのだから、自分も家族の死を乗り越えられる。と自省録に残していた。

そんなふうに考えられるものなのだろうか。

生きているのは本当に苦しいことだらけだ。

苦しい事と苦しい事の間に時折の楽しさがあり

楽しいことと楽しい事の間はすべて苦しさで埋まっている。

メンタルについて哲学を通して、色々学んではきたけど

それでも結局は言葉遊びのようにも思える。

本当に苦しいという思いをしたことがないから、乗り越えられるものなのか、正直自信はない。

本当に、生まれなければ何もなかったというのに。

ベネターの論は正しい。

産むという行動こそ、残酷そのものなのではないだろうか。

子供は可愛いが、その可愛さに負けて、残酷な世界に放り出す事は

本当に正しいのだろうか。

これがマジョリティな意見だとは言わないけど。

イレギュラーはいるのだ。

そしてそのイレギュラーが生まない保証はどこにもない。

僕がそうであるように。

やっぱ欲がしんどさの原因なんや

釈迦らが説いてる通り、やっぱエゴ、利己的な欲がしんどさの原因なんだと思う。

金銭欲や承認欲はその代表だけど、

欲ってのは一概に言葉に出来ないものだと思う。

ただ「お金が欲しい」といってもその先に、欲しいものがあったり、集団の中で優越感に浸りたいという承認欲が含まれてたりもするし、寄付をしたいというところに繋がってる事もあれば、ただ数字を増やしたい欲もあったりする。

しかし、その良し悪しは関係なくて「今無いものが欲しい(まだ足りない)」と思っている時点で、苦しさを作る。

何かをしなければという衝動に駆られる。

ショーペンハウアーの言う、何かを目指している時は現在との乖離に苦しんでいる状態になる。

とはいえ、何も目指さなければ、彼の言う通り「暇」で苦しむ。

中庸ってのは本当に難しい。

よく、論説が変わる事を軸がないなどと批判されている人がいるけど、人間そんな簡単に片方に振り切れるのも難しい話なのかもしれない。

お金や承認が欲しい欲しいをずっと続けることも

どっちもいらないを続ける事も

どっちもほどほどに、を続ける事も

全部難しい。

人間は自分が思うように自分をコントロールし続ける事が本当に難しい生き物なんだろうと思う。

だからマルクス・アウレリウスは毎日毎日、日記を通して自制し瞑想し続けたのだろうと思う。

簡単な事ではないのだろう。

日記を書いていると、自分が今やっている事や、方向性が自分の望んでいるものであるかと俯瞰して考えることができる。

これを続けていても、人間はブレる。

ブレる事を悪とするとまた苦しむ。

ブレたくないという欲が働いているからだ。

そもそもが、こういった欠陥だらけのモノなのだと、受け入れなければならない。

だから生きる事は苦しいのだと。

その上で、できるだけ程々に楽に生きられるように、自分の歩幅で可能な限り 調整し続けていきたい。

エゴ捨てるんが一番やん

「自分のために」動くのが一番ダメなんじゃ

ダライ・ラマは、自分自分のエゴイストをエゴイストじゃなくてアホであるとか言ってるんだとか。

エゴイストは本来自分が満たされるという目的のために行動をするのだけど

「自分自分」のエゴイストは満たされない。

何故ならば自分しかみていないから、

与える人が受け取れるってのは、昨今の科学でも言われてるんだとかで、GiveandTake的なやつ。

自分自分マンは与えないから受け取れない。

苦しいのは「与えてないから」「自分のことしか見ていないから」かも。

さて。

Twitterばかりやってしまう問題の一つとして

「早く情報が欲しい」的な事や「自分を満たすための面白いなにかが欲しい」だったりするんじゃないかと思うようになってきた。

つまり、得る事ばかりで、与える事を考えないからTwitterばっかり見てるのが苦しさに繋がってるんじゃないだろうか。しらんけど。

僕の場合、絵や漫画を描いて多少なりとも誰かに楽しんでもらう事が出来る。

このスキルは大事にしたいと思った。

お金も承認も、無条件にもらうより与えてる方が気持ちがいいような気がする。

自分1人が喜べる事より、誰かに喜んでもらう方が幾分楽しい気がする。

スキゾイドなので直接誰かとどうこうというのは本当に苦手だから嫌だけど。

絵を描いて、面白がってもらったり、駄文が楽しんでもらえるなら幾分、マシな存在になれる気がする。

最悪ゴミになったとしても、無意味にTwitter見てるくらいなら、なんでもいいから、アウトプットしてよう。

あと、Twitter見てるくらいなら大昔の時代劇でも見てる方が有意義だと思った。

youtu.be

億万長者がずっとTwitterしてる問題について

クリプト界隈を見てると思う事なんだけど

この金持ちはなんでTwitterやってんだって。

お金なくても出来る事を、お金を手にしてもやってるんだ。

実質、本当はいらないんだと思う。生活費以外は。

だって、やることは一緒なんだから。

僕の場合は、原稿描いたり、絵描いたり、筋トレしたり英語勉強したりみたいなのが「やった感」のある楽しい行動なんだけど、

これらはお金がなくても出来る。昔は英語はお金がかかったけど、今はYoutubeあるし、筋トレもウェイトにこだわらなければ十分安価で出来る。

依存性の高いネットメディアに引っ張られる事が多々ある。

Twitterもその一つ。

お金があるかどうかじゃなくて、依存させられてるだけなのかもしれない。

お金はお金で依存性が高いわけだけど、何事も使いようで

お金が欲しいという原動力が仕事になるならそれはそれで良いことなのかもしれないし。

目立ちたいとか、褒められたいとか、まぁその他もろもろ欲が起爆剤になって動けるなら、それはそれでいいのかもしれない。

でも、こういった活動はだとお金もってるもってないは関係ないんじゃないかなと思って。

つまるところ

人の欲ってのはお金と違うレイヤーにあるんじゃないかと思えてきたり。

満たしても満たされきれないのが人間だから、お金があったらあったで、お金以外のことを求めてるだけなのかもしれないけど。

所詮はやはり釈迦が説いてる通り、欲やエゴを捨てるしか満たされないのか。

厄介。

やる気でないので、お金を捨てる

アンダーマイニング効果に負ける

どうも、FIRE目標達成後に燃え尽きみたいになってまして。

原稿したんだけどやる気起きないみたいな

アンダーマイニング効果ってやつで、一旦報酬を受け取ってしまうと報酬なしでその行動を行いづらくなるというやつ。

あれが結構効いてるのかもしれない。

絵を描くのも漫画を描くのも好きなのに、ただ無意味に描こうとするとネットのメディアの依存性にあっさり負ける始末。

お金を捨てる

という事でお金を捨てる。

捨てるといってもリアルに捨てるわけではなくて

インデックス+現金をFIRE資産ギリギリにして、後は全部リスク高めの資産にする。

暗号資産や個別株がターゲット。

個別株

個別株はいまいち何が面白いのかまだわかってないけど、優待狙いとかでもいいかもですね。

経済効率は悪いけど、物もらえる資産持ってるのは悪くないなと思うし。

ただ、優待はほとんど知らんのですが、日用品くれるとこ探しときたい。

暗号資産

暗号資産は、最近割りと調べてるんだけど

もともとガチホ勢だったのが、動かし始めたのがPlay to EarnのPJを知ったからだった。

でもこれは労働と同じ上に、排出トークンが無価値になっていくのがほとんどで、

マジでお金も時間も捨てる事になってしまう。

これは無理。

IDOといういわゆるIPO的なことをやってるローンチパッドや

主要なDefi、銀行サービス的なものをやっているところにお金を預けてしまおうと思う。

FIRE達成とはいえ、さすがにギリギリになればモチベも復活するでしょうよ。

経済活動には参加したい

皮肉なもんで原稿は描きたいんだなぁ。

それに、お金も稼いでいたいと思う。貯めたいわけではなくて経済活動に参加したい。

なんやかんやで、思うのは経済って分野は好きなんだと思う。

お金からは開放されたいけど、それはあくまでもお金がないという苦しさや将来不安から開放されたかったわけで

でもそういう問題は、メンタルの話だから、お金があるとかないとかより、哲学やって瞑想でもしてた方が開放される。

このお金という人間の発展に強い力を示してきたこれを、エンターテイメントとしても、関わっていきたいのかもしれない。

よくわからんけど。

それにー。

ウクライナの事を思うに、

逃げるなり国防のために税金を納めるなりは、放棄しない方がいいんじゃないかと思う。

苦しんでまでやる必要はないが、

幸い。

自分の仕事はそれなりに楽しいし。苦しい事もたくさんあるけどねぇ。

なんか、色々考えるけど

お金は手段であって目的ではない。

今までは、ただ「貯めて安心する」だけのものだったけど、

「生きてる」とか「関わってる」とか「楽しむ」とかそういう感覚ためにうまく付き合える距離感みたいなものを見つけたい。

全部捨てて、山で暮らすってのもありだとは未だに思ってるけど。

虫、嫌いだし。

一つのことをやり続けるのがいい

いろんなことを同時に進められる人がいる

でもそれは僕には無理だ

人には向き不向きがある。

一つの事だけをやり続けていれば、考えることも少なくなる

集中できる

一つだけやってればいい

これしかないと思ってやれれば必死になれるし

あれもこれもと手を出していたらキリがないし

一つだけでいい

新しい刺激が欲しいからと、触ってしまったとしても、少し触ったらすぐ飽きるくらいがちょうどいい

飽きることを恥じることもない

なにか一つあるのなら

それでよし

やはりお金は使わずに生きるのがよいと思った

お金を使っても本当に一時しのぎにしかならない

英語勉強するやら筋トレやら、読書やら絵を描くやら

そういうのはちょっと大変だったりもするけど、面白いし、後腐れがない

なにか数字が必要ならその手のSNSを使うとか、スプレッドシートでも用意してやればいい。

何冊読んだとか、何ページ読んだとか

どれだけの時間勉強したかでもいいし、何枚描いたとかでもいい。

知的な楽しみや、トレーニングみたいなものは普通にゲームだと思える。

むしろ、

そういう事を楽しめずお金を使った消費や浪費でしか幸福感を得られないのは、むしろ貧しいのではないかと思ったりもする

人それぞれだとは思うけど

僕は、お金を使って遊んでも、あまり面白くはないみたいだ。

やる気とお金

仕事がお金を貯めるという目的で働かなくなったので

他のモノなりなんなり目標のようなものが欲しいと思うのだけど

見つからず。

セミリタイア目標が一つのターゲットだったけど、何もしないと暇死しそうだし、そもそも仕事も嫌いなわけではない個人事業主なので仕事をやめる気はない

とは言え、ネットなりなんなり現代は依存性の高いあれこれが身近に有りすぎるので、行動動機がないと仕事をうまく回せない

なにか無いものかと。

しかし、

こういった目標をたとえば単純にお金にするとキリがないし

モノにしてもまたキリがない

どちらかと言えば知的な好奇心というか

英語が出来るようになるとか、筋肉をつけるとか、そういう事に魅力を感じるけど

それは仕事のモチベーション維持には使えない

その行動はその行動で別の学習なりトレーニングが必要になるから当たり前だ

「英語で金が稼げる」とかそういった、以前はあったもう一歩のモチベがなくなっても英語学習はぼんやりと続いているから、やはりお金とモチベーションは必ずしもイコールではないのだと思うのだけど

仕事に至っては、一度金銭を頂いてしまっているがゆえに、アンダーマイニングというやつが働いていて、お金なり何なり行動動機がないと、楽しいとはいえ別のものに意識が向いてしまいガチなのも事実

難しい。

例えば、1億!とか目標を立てるのもいいかと思ったが、そもそもその数字に意味を見いだせないし、何よりも仮に超えてしまったら同じ問題にぶち当たる事になる。

不動産も考えたが面倒くさそうだし

NFTも考えたけど。やはりキリがないし、ゲーミフィケーションのプランを立てて仕事に取り掛かった時点で若干空きてしまった。

好きなAV女優のAVでも集めるか!とか思ったけど、元よりそういった収集欲が薄いわけで、一瞬いい案だと思ったけど、やはりその後すぐ無駄なネットサーフィンに手を付けて仕事のモチベになんて成りはしなかった。

モノやお金がキリがないからやらないと手放してしまうのが東洋思想的には良しなのだけど

いかんせん何もかも捨ててぼーっと瞑想だけしてられるかと言われると

可能なのだけどやはりなんというか

なんとも言えない、これで大丈夫なのだろうかという思いも湧いてくるし

何より絵は描きたいと思っているし

それを捨ててしまうのも東洋思想的なのだけど

そうやってすべて捨ててしまうのは果たして良しなのだろうかというジレンマもある

東洋思想は好きだし、全部手放せば楽になれるのもわかっているが。

これを捨てたら

自分の人生というものが本当にわからなくなりそうだし

非常に難しい

捨てたくないものが仕事だったという事が

なにか自分をドツボのようなものにハマらせてしまった気がする

どーしたもんか。

別に楽しくないわけではないけど、なんともこう、どうしても馬鹿な職人のような生き方に憧れをもってしまうというか

無休で働いてる料理人とかにあこがれてしまうというか

そういうところが捨てられないからしっくりこないんだろうか。

捨てて良いのだろうか。

捨てたとして何をするのだろうか。捨ててネットをしてたらそれこそゴミになってしまう。

そんなゴミになるくらいなら俗世にまみれて生きていた方がマシだろう

ネットしてる時点で俗世間的な気もするけど

乱文乱文

自殺防止キャンペーンで自殺は減るのだろうか

疑問がある。

自殺防止キャンペーン的なあれこれで自殺は減っているのだろうか。

自殺したい人間と、生きたい人間には根本的に違いがある。

根本的に苦しい「生きる」という行為を続けていきたいかどうかだ。

自殺したい人間は、苦痛から開放されるなら別に生きていなくても良いと考えているし

生きたい人間は、生きたいから苦痛から開放されなくても頑張れる。

何がどうだから生きたいとか、何がどうだから死にたいのではなく。

そもそも先に死にたいとか生きたいがあるんじゃなかろうかとか、そんな事を思ったりする。シランケド。

僕も昔は希死念慮が強かった。

ただ自殺企図に至った事はない。

希死念慮については今でもたまに湧く。湧くが、認知行動療法等を学んだお陰で割となんとかなっている。

何よりも長くともせいぜいあと5年くらいで死ぬつもりで生きてるから、さして不安になることもない。

将来の事なんて考える意味もない。5年後くらいなら別に何を心配しろというのか謎なくらい短い将来だ。

これは別に逃げてるわけではない。

そもそも10年後20年後なんて考えたところでなんの意味があるんだろう。

それこそ、病気や事故で死んでるかもしれないのに、そのために思考や時間という重要なリソース削って心配しても意味がないだろう。

適当でいいんだ。

どうせ死ぬんだから。

話がずれたけど、、そうだな。

生きたい人は10年後20年後を明るく想像するんだろう。

死にたい人は、10年後20年後を暗く想像するんだろう。

だから噛み合わないんじゃないだろうか。

ダニエル・ギルバート氏の著書に確かこんな事が書いてあった。

意訳だけど。

「人間の未来予想はあたらない。良いことを想像する時良いことばかり想像して、悪いことを想像する時悪いことばかり想像するからだ。良いことに付随して起きるまたはその後起きる悪いことは想像しないし逆もまた然り。だから人間の未来予想は当たらない」

と。

生きたい人が生きて、「死んでおいたらよかった」と思う未来がくるかもしれないし。

死にたい人が生きて「生きててよかった」と思う未来がくるかもしれない。

まぁ。僕から言わせれば死ねば、悪いことは起こらないから100%今より不幸にはならないわけで、正解っちゃ正解だと思うけど

こんな事を書くと怒られそうだが。死を幸福としないならば、人間は総じて最後は不幸になるという事になる。その論理はニヒリズムすぎやしないかと思うわけで。

まぁとにかく、人の一生は一切皆苦

基本は苦しいもの。それを一時しのぎ的に楽しいで上塗りしているに過ぎない。

それも飽きれば退屈という苦痛を生む。

結局は苦しい。

死んだもの勝ちだが、まぁ急ぐこともない。

本当に死にたくなるまで適当にこなすのも悪くないんじゃないかと思って

僕はまだ、だらだらと生きている。

休むことに対する抵抗感

疲れてしまったようだ。

疲れる事もある。

休む事に対する抵抗感がある

だらだら生きてるようで何かしらやっている

頭がパンクしたかもしれない

休もう。休む事をもっと自分に許そう。

どうせ何してようが人間はそのうち死ぬんだから。

少しくらい休めばいい。

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