自由という不安定さ
自分で自分を縛る。自己欺瞞というのは誰にでもある。
サルトルは、「人間は自由の刑に処されている」と説いたので有名だけど
この自由とはなにか。
それは「何者にもなれない」という事を自由、としているらしい。
無とも表現されているとか。
つまり、とどまることができないのが人間であるという事だ。
そのふらふらとした自分を、不安定な自分という苦しさをこう表現したのだとか。
選択の辛さとして考えられる事もあるが、一生安定できないと説いた方がその言葉の重みを感じる。
不安定という辛さ
しかし、一方人間は安定したい生き物だ。
自分がどういう人間であるか、自分で決めるのだ。
しかしそれも一時的なもので、常にふらふらとしている。
ある人の前ではある種の自分を演じ、
別の人の前では別の自分を演じる。
このTwitterアカウントではこんな自分を演じ、別のアカウントではまた別の自分を演じる。
そして自分はこういう人間であるという、自分自身をも騙し自己欺瞞に浸る。
そうやって沼にハマる。
清貧が認められない人間
マクロ経済的な合理性についてはスルーするとして
僕は清貧思考が好きだ。足るを知るとか、中道とかそういうのが好きだ。
過ぎたるは及ばざるが如し。というし、人間の欲にはキリがないのだから、ある程度線引してしまった方が楽に生きられる。
コスパが良い方が楽だと思っている。
だけど、自己欺瞞にハマる瞬間がまったく無いのか、と言えばあるようにも思う。
たとえば、今Twitterはクリプトアカウントになってしまったが故に、フォロワーの情報に反応しているように思う。
特にお金も使ってはいないが、なんだかここにいるとそれなりに使ってる感じ出してないとだめなんじゃないかなー、みたいな気分になることもある。
これはエゴだと思うし、自己欺瞞だ。
自分にある種の役柄を設けて、その場での立ち振舞をどうするか考え試みている。
この役柄が「金持ちキャラ」になってしまっては厄介だなと思う。
金持ちは3足500円の靴下を買うのだろうか。
金持ちは車を持っているのではないだろうか。
金持ちは高級車のエンブレムと一緒にスタバのコーヒーを移して、何気に金持ちアピールをするのではないか。
そんな事を考え実践し始めたら、一体なんのために生きているのかわからなくなってしまいそうだ。
誰にどう観られていようが関係がない
誰にどう観られていようが関係がない。
誰かにどう観られたいかと考えることはエゴイスティックだ。
しかし、何度か書いたが、真のエゴイストはダライ・ラマが言う通り「他人にあたえる人」だ。
自分自分では結局エゴは満たされない。
エゴと自己欺瞞が悪い方向で重なれば、清貧を貫けないだろう。
レンチンさつまいもが主食も兼ねて最強のオヤツになる人生のまま終えたい。
なんか謎のカタカナのオヤツや、分厚い肉の写真をSNSにアップして虚栄心を満たすようになっては
それこそ、永遠に満たされはしない。
足るを知る人生でありたい。
余ったお金は家族や知人のためにでも使えばいいし、今ならウクライナにでも寄付すればいい。
所詮金は金。
無いと困るが多すぎても役には立たない。
事実、金持ちが満たされているなら、つまらない自慢をするためにSNSを利用する時間もっと有意義な事をするだろう。
人間は金では満たされない。
外的なものでは人は満たされない。
自分が自分に嘘をつくのをやめ、ふらふらとして何者にもなれない無力さと
いずれ死ぬという無常をを認め
ただ目の前の事に集中して生きるしかない。
虚しいが、人間なんて、ただ生まれて朽ちるだけの現象でしかない。