思いついた事はとりあえずやってみる
なんでもとりあえずやってみるのは良いことだと思う。
僕は最近、いくつかの新しい事に挑戦して、気づいた事がある。
- YoutubeとPodacastのトークラジオ
- ゲーム実況、解説動画の作成
- Twitter漫画
等々。
気づいたことというのは
- 人の役に立とうとする行為、圧倒的に向いてねぇ。ふざけてる方が楽だ。エンタメ作ろう
- 録音コンテンツ作るの向いてねぇ(めんどくさいと感じる)
- 解説するほどハマれるゲームがねぇ
- テキストは書くの好きだけど、結果はついてこねぇ…
以上。
向いてる向いてない or 慣れているかどうか
向いてる向いてないを知れたのはよかった。
ただ、脳は「流暢性の誤帰属」という仕組みがあるそうで 慣れてる物事を「好き」だと感じるらしい。
つまり、向いてないのではなく「慣れてないだけ」かもしれない。
テキストを書くのが好きなのは、もう10年以上、筆記開示というメンタルケアのテクニックを地道にやってきたからだと思う。
ただひたすら頭の中を書き出すというシンプルな遊びで、元々は「ずっとやりたかったことをやりなさい」の中でモーニングページという手法として知ったものだ。
これは科学でもなんでもなく、著者が「創作野郎にはええで」と勧めていただけだが、自分にはなんか合っていたので続けていた。
書くという行為は慣れている。
だけど、ちゃんとしたブログを書いたりする事はとことんやってこなかったため、向いていないと感じているのかもしれない。
つまり慣れていないだけだと。
老子「努力すんな無理すんな」
老子は無為自然として「努力すんな無理すんな」と説いている。
自然体でやりたい事をやってろ、向いてる事をやっていろと。
結果どうたらこうたらというより自然に生きろと言っている。
僕が色々やってみたのは、おそらく資本主義における「なんかやってないといけないのでは心理」が襲ってきたからだろう。
圧倒的にニート向きではない思考回路から発せられるこの思考は、ここ数年、やたらと僕を襲ってきている。
でも、もう一応ギリギリ稼げてる本業があるんだから、それだけやっておけば別にいいんじゃないかと。
何よりも、僕は人を救うような情報発信はできそうにないと思った。
他人の人生に責任をもちたくもないし、間違ったことを示唆して、おかしなことになっても困るし。
考えすぎだろうけど、僕は無責任でいたい。
人の人生になんてできるだけ関わりたくないとも思ってしまう。
これからは自分のために発信する
だから、これからは、自分のために、自分の勉強した事を吐き出す行為に勤しもうと思う。
他人がそれを見てどうたらこうたらは結局他人の問題だし、どうしようもない。
僕は自分が学んだことを吐き出して固めるためにブログやTwitterを使っていこうと思う。
それが自然な気がする。
喋りたくなったらYoutubeやPodcastにするし、文字の方が楽ならこのまま文字を書く。
稼げるとか稼げないとかそんなものもどうでもよくて
自分の頭の整理のために、文章を並べる作業をする。
色々やって、そんなことを思った。