仕事
よくわからなくなってきたけど。
今パレオさんのブロマガでやってる、解決セラピーみたいなのでわかってきたこと。
自分は何をどうしたいんだろうってのを考えていると、
「仕事は知らんが。絵や漫画は描きたい。」
みたいな感じだとわかってきた。
英語や筋トレと同じで、絵を描く事は楽しい。
お金を稼ぐために描くというのは大変だし、少し距離を置こうかなという感じ。
月5万から10万くらいを目指してのんびり仕事できたらええねぇ。
悲しみに終わりはない。
途方もないという事を受け入れていなかったと気づけた動画。
マラソンじゃないんだから、悲しみに終わりはないと、人生と悲しみはいつも繋がっているから、これでゴールだなんて方法はないやで、という話があった。
これは、Netflixのコミンスキーメソッドでも2話で語られてた話だ。人生は苦痛そのものだと。苦痛から逃れるためにさまよってもどうにもならんと、生きることとソレはイコールだからだと。
仏教も、そもそも「苦痛は人間の人生に不可欠で回避不能だけど、どうにかこうにかする方法はそれなりにある」って哲学だし。
逃れようとすればするほど狂っていく。
改めてストア哲学の「コントロールできるものと出来ないもの」の把握能力を磨かねばならないと思った。
感情はコントロールできないんだ。
終わり(ゴール)を求める心
終わりを求める心が常にある気がする。
ゲームもクリアするまでやりたい。みたいなのがある。
オンラインゲームでも何かゴールを決めて、例えばLvカンストとか、そこを目指してひたすらやってた。
絵にもゴールがあるような気がして描いてたけど、それはどこかでこりゃゴールとかじゃねぇなってなって今は受け入れられてる。
でも筋トレには一定のゴールがある。体重75Kgで体脂肪15%くらいがいいなーとか思ってる。しかし、体重減ってってるけどなぁ。これは病気かなーって思ってるけど。まぁそれはいいとして。
英語も、ゴールがある。語彙力2万語を目標にしてるけど、そもそもそれをクリアしたら学びを停止できるのだろうか。
言語というのはそういうものなのだろうか。日本語でも一生を通して学び続けるのに。
悲しみ含め、感情のコントロールについても終わりなんて無い。
どこかで「終わり」があるかのように接するから、いつも生き急いでしまうんじゃないかと思ったりした。
お金もそうだ。4%だの3%だのの目標値に到達すればなにか変わるのではと思っていた。
どれもこれもバイアスだなぁ。フォーカシングイリュージョンに当てはめすぎかもしれないけど、「こうなればきっと」ってどこかで思ってる自分がいる。
でも、人間の一生ってのはそういうものじゃないんじゃなかろうか。
どんなものも「極めた」なんて世界はないし、そもそもゴールを目指すのではなく、今楽しんでいる事が重要なんだから。
道程こそを、しないといけないんだ。
英語
ほんで英語。
Ankiの登録数をようやく3000にできた。
ぎゃんぎゃんにやりたいけど、コツコツ楽しんでいこうと思う。
完璧主義にならずに。
あー、そうか。終わりを求めるのも完璧主義的思考なのかもしれない。「クリアしたぞ」って言いたいんだろうなぁ。
よくないな。
「出来る」とか「趣味です」って言うしきい値が高すぎるんだろうか。 「筋トレ趣味です」ってガリガリでも言えるくらいのメンタリティが僕には必要なのかもしれない。