アカギが、死に怯える銀次に言った言葉ですけど
最近この重みを感じるというか。
死後の世界を信じてるというより、「死ぬってことはあの人たちも経験した事なんだ」という安心感というかそういうものを感じる時がある。
先日より体調がすこぶる悪く、検査結果待ちなのだけど、悪すぎるので設備のある別の病院に行こうとすら考えてるレベルでよくない。
だけど、それは死ぬことが怖いからとは少し違っていて
今このまま死んだら迷惑をかけてしまうな、と思うからちゃんと調べる機会があるなら調べて対応できるなら対応したいという割とフラットな感覚から来ている。
ただ、それも少し考えて「まぁいいか、その時はその時」という楽観なのか悲観なのかわからない結論に至り始めて、行かずに終わる。
明日は日曜日だし、そもそも今日ももう診察時間まで余裕が無いので行かない。
鳥山先生の死
先に死んだ人がいるという安心感についての話に戻す。
割と僕のこの感覚を与えてくれたのは鳥山先生な気がする。
まだ先生の訃報を聞いてから一ヶ月も経っていない。
子供の頃に好きだったもの、そして隅っこ業界ながらも漫画家という職業について、先生の偉大さがわかって
それでも、そんな人でも死んでしまうんだという感覚。
これは、一つの安心を作ってくれたように思う。
先生はまだやりたい事もあっただろうから、残念だと思ったかもしれないけどねぇ。
僕もまだやりたいと思ってることはあると言えばあるし、死にたいわけでもないし
今死んだら後悔しないとかそんな事でもないだろうけど
死の恐怖が思っていたものと少し違うような
そんな感覚を得るきっかけになったのは確かだと思う。
まぁ、眼前に迫ってないからかもしれないけど。
どんな人でも100%死ぬ
養老先生の対談本にあったんだけど
「何かの病気を治しても、その後かならずどこかで100%死ぬからね」って話が当たり前なんだけど頭に残っている。
今、僕は体調不良を抱えてて、これはちょっとやばそうだなという感覚の中にいるけど
これを乗り越えたとて、恐れ早かれいつかは死ぬのだ。
5年伸びても、10年伸びても
それで何かが変わるわけではない。
いつかは必ず死ぬんだから
長く生きる=幸福ってのは
この社会における価値観であって、ならば早く死ぬような環境で生きた人はみな不幸だったのかという疑問を真剣に考えない人たちが作った浅い価値観だとすら感じる。
みんなそれぞれだ。
それぞれ。
長さじゃない結局、死ぬ時何を思うかなんじゃないか。
僕は、死ぬ時どうしよう。
昔の事でも思い出して死ぬのがいいかな
恥をかいた事を嘆きながら、でも元気に生きてたと思いながら死ぬのもいい
代わり映えしない環境の中で、ただモクモクと漫画を描いた日々を思い出して死ぬのもいい
アカギじゃないが、痛いのや苦しいのはゴメンだが、それもその瞬間にならないとわからない。
どうにも、なるようにならんもんだな。人間の一生は。
最期の最期は所詮、運任せか。