書かれてあるが孤独の対策が基本的に拍子抜けというか、クソなんですよね。
ボランティアに参加しよう。昔の友人に連絡を取ってみよう。
なんかこういうの。
アホなのかって。
それが出来たら孤独に陥らんのだが、って思うんだけど、それをやらないと孤独というか孤立に陥ってしまうのも事実。
これは根本的に孤独の問題が外部的な問題か、内的な問題なのかを区別できてないからいけないのではないかと思ってしまう。
孤独の問題は主に内的なもので、孤立の問題は外的なもの、のように分けて考えなくてはいけない。
そして、悩みの原因はどちらにあるのかはっきりさせて対策を取るべきなのだけど。
というか、そもそもどちらにも無いのかもしれないのだ。
フォーカシングイリュージョン
隣の芝は青く見える現象みたいなもので、「〇〇があればハッピーになれる」と思ってしまうバイアスをフォーカシングイリュージョンというらしい。
孤立に関係して発生する孤独はまさにコレだと思う。
孤立から脱却すればシアワセになれるわけではなく
本人にとってそれがちょうどいいから孤立しているのだが、元々メンタルがアレで、本人にとってちょうどいい孤立状態でもメンタルがアレしてる場合もあるのだ。
脱却すると余計によくない状況に陥る事もある。
ラット研究では、一匹で育てたラットを群れの中にいれると、扁桃体の孤独に関する部位が働き始め、引き剥がすと強く反応しはじめ、また群れに戻しても働きの強さは維持されていたとか。
つまり、群れの中でこそ孤独を感じるという事もあるのだから、人とのつながりを増やす事が逆効果になる場合もあるのではないだろうか。
それを「電話をかけよう」ではないのである。
これでは、間違っている。
孤独に関するストレスは群れをなしていないと死んでじまう時代のもので、現代は孤独でも別に生活できるのだからいいじゃないの。のスタンスが大事なのではないかと。
僕は孤独な自殺志願者だが、自殺ができない。
さて、自殺についてで言えば
僕は割と自殺志願者だが、死ぬのがシンプルに怖いので出来ない人間だ。
生きるというのは辛い。
それでも死を選択できる人間はよほどエネルギッシュな人間であって僕のようなあやふやな芯の無い人間には、選択できない選択肢なのが、死なのである。
死はゴールだ。
こういうと語弊がありそうだが、人生のゴールがあるとすればそれは死以外、他にない。
その死に際がどんなものであってもただフラットに、生きて死んだという事実と向き合うものが死なのだと思う。
シアワセならばシアワセである程、死によって失う事を嘆き諦め死んでいくし。
不幸せなら、やっと終われると思うかもしれない。
どんなに金持ちでも早死する事もあれば、貧乏で不幸な死にたがりが長生きすることもある。
死は常に不条理で人間にはどうしようもない存在だ。
そこにたどり着くまでどう生きるかを選択するのが人生なのだが
その人生の選択も、生まれ、遺伝子、立場、環境等々、あらゆるものによって外的に決定づけられている側面がある。
僕らは選択している風に感じているが、選択させられている。
これが、いわゆる構造主義だと思っている。
マーク・トゥエインはそれを「人間は機械である」と説いた。
洗濯機が自分の意図関係なく、洗濯物を放り込まれて回るように。
ぼくらも複雑性の中で見えなくなっているだけで、所詮はこれと同じなのである。
故に、孤独だろうが孤立だろうが、自分で選んだわけではなく、選ばされてきたのだから仕方ない、甘んじて受け入れよう。
くらいでもいいのかもしれない。
知らんけど。
ちなみに今めんたるが 最悪な状況にあるため、この駄文は聞き流していただきたい。
腰が痛いし、体調不良が続いてるし、仕事を続ける気力も自信も根性も潰えてしまった。
なにか病気なのか、それとも、精神的にいよいよなのかもしれない。