瞑想しなくても
本当に「死ぬ」って事を理解したら悟れると思ってる。
悟りってものの定義によるけど、
ココで述べてる悟りは魔法みたいな話じゃなくて以下のようなもの。
- 些末な事に悩まされる、過剰に怯えず無謀にならず、今出来ることを淡々とやれるメンタリティ
色々哲学読んできたけど「今を生きられれば良し」って事に繋がってる気がするんですよね。
実存主義も構造主義も、世界の性質や人の性質を説明してるけど、「じゃあどうすればいいの?」って事の答えとしては
僕がたどり着くのはいつも同じで「今出来ることをやる」にしかたどり着かない。
構造主義を学んでからは更にそれに尽きると思うようになった。
構造主義
雑な解説になるけど、
構造主義とは…基盤の構造を明らかにして対象を説明するというもので。つまりは、人は構造の奴隷であるという事実を解き明かしたもの
構造とは…(人をベースに考える場合)属する社会の環境や周りの人々等々その人を構成する外部的な要素から、内部的な要素(才能や感性等)を含んだもの。
人は言葉によって考えるので、言葉が違えば考え方も変わるみたいな話も含まれています。英語にはあるけど日本語には無い表現とかそういう話。
つまり、その世界において「よし」とされているものに縛られてしまうのは、人間には抗いがたいものだという事になります。
たとえば、お金至上主義みたいな世界に生まれると、お金を求めるようになる。
資本主義や先進国はコレに近い世界観が一部形成されている。
最近はスマホの普及で「承認欲求至上主義」的な所も出てきている気がする。
そして僕らはこれに容易に抵抗できない。つまり、人は構造の奴隷である
しかし死ねば無意味
まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一も相添うことあるべからず
これは蓮如という坊さんの遺した言葉だとか。
本当に死ぬ時というのは、頼りにしていた妻子も金も、死んじゃったらあの世には持っていけないんすよね~みたいな事ですね。
これは金も承認も同じ。
最近は「思い出こそ本当の価値がある」って主張もある
けど、これも一つの構造的要因で発生した価値観だと思います。
仮に思い出が幸福の正解なら、ピダハン族のように過去未来について深く捉えないとされている民族は不幸なのでしょうか?
たしかに思い出は酔える。酔えるけどそれまで。
本当に死ぬというのはそういったものも捨てるという事だから。
そこには「ただ死ぬ」という事実しか存在しない。
二人称の死と一人称の死
養老先生曰く、人間の死というもので向き合わされている死は、二人称の死であるという事らしいです。
近親者や友人、恩師などなんらかの関わりのある人の死の事ですね。鳥山明先生みたいな有名人の死もその人への関心次第では、二人称の死になりますよね。
三人称の死はただの数字になる。
一人称の死は養老先生はエピクロスと似た思想を持っているようで「自分が死んだら自分は存在しないんだから関係なし」みたいな感じだそう。
一人称の死はそのくらいフランクなものとして無視してしまうのが丁度いいのかもしれない。
死を真面目にとらえて今を生きるか
どうせ死んだら全部パーなんだから好きな事しとけと捉えるか
どちらでもいいんだけど
結局たどり着くのは「今自分がやれることをやる」という事になる。
SNSのように「やらされている」のはゴメンなんですよね。ほんとに。
やらされてる感覚に陥る時ってのは「金のため」「承認のため」「恐怖心から」「社会的責任のため」等々、あると思うんだけど
欲に動かされる状態だけは避けたいよなと思う次第。
なので仏教的な雰囲気になるけど、何を読もうが学ぼうが最後には「執着を捨てて今を生きろ」って所に行き着くんですよね。**
「死ねばそんな欲求、満たすことなんて無意味なんだから」と思えるかどうかは人それぞれだけど、僕はLikeの数やフォロワ数に時間、つまりは命を使うのは嫌だなと思って
笑わせたいとか、喜ばせたいとか、そういう利他的な動機の先に、結果的に数字に繋がってるのならまだいいんじゃないかなと思う次第です。
余談:大江英樹さんの動画
大江英樹さん。
— いぬお@隠れて生きよ (@inoue_inuo) 2024年3月24日
この半年後に亡くなられたそうな。
・増やすのは簡単、減らすのは難しい
・お金より大事なのは思い出
・死ぬまで働くが、仕事はいつかできなくなる
立場や物を捨てて若い人に譲っていく話もよかったhttps://t.co/w63TUbn57x
この半年後に亡くなられています。
人はいつ亡くなるかわからないから、何を求めて生きるのかってところに構造的要因を無視することは難しくとも、せめて少しでも自分で考えて決断したい。
死ぬという事実は、構造的呪縛から少しくらいは開放してくれるんじゃないかと思うわけです。
しらんけど。