以前から、一度かって引っ越しで処分した「天」を買い戻そうと思っていた。
ラストシーンだけでいいと思って。
Kidnleでラスト部分の3巻程を買い戻した。
ネタバレあるよ
動物は能力を失えば死ぬ
曽我と会話の後、曽我はアカギが認知機能を失って死を選ぶ事を動物に例える。
鷲が爪や羽、クチバシを失って生きる事が不自然な事であるように、アカギは死ぬのだと。
力を失ってただ生きるのではなく死を選ぶことを許容することについて語っている。
曽我自身、足が不自由になり車椅子で生活をしている。
その最中でのアカギとの会話。
曽我自身ふっきれたと語っているが
力を失ってぐずぐずと無理にでも生き続けるという事、
死を遠ざけようとする事の不自然さについて、改めて考えさせられた。
死は自然な事
死はたしかに怖いものだけど
不自然な事ではない。
その自然の不条理さを嘆くのは生物として仕方ない事なのかもしれないが
人間はそれを過剰に遠ざけようとする。
ピダハン族はこういった現在にない事に悩む先進国の人間を「頭のねじれた人たち」と呼んだとかなんとか、どこかで読んだ記憶がある。
狩猟採集民すべてがそうというわけではないだろうが、自然の中で生きている人たちは
我々先進国の人間と違って、生き死にがすごく近くにある。
生き物を取って食べるし、
人付き合いの関係性も狭く近いから、近くで人が亡くなっているのだろう。
ソレに比べて、僕たちは人が死ぬという事を感じる機会があまりにも少ない。
一節によると死に近い職業(医者や葬儀屋)は死の恐怖心が他の人に比べて薄いのだとかなんとか。
死にふれる経験が多いと、死が自然なものだと受容できるのだろうか?
生きる意味
「死を考えるのは生きる意味を見出すため」だなんて話もあるし
それはある意味同意する部分はある。
けれど
根本的に人間は自然の一部であって、意味が与えられて生まれているわけでもなんでもない。
ただ持って生まれた性質、環境らに対して反応しているだけに過ぎない。
しかし、それをどう感じるかは「選択したという誤認」ができる。
それがこの不条理な世界での、最後の気休めであって、最大の気休めでもあるんじゃないだろうか。
僕にはこれといった意味は見いだせないけど
とりあえず、どこかで腹をすかせている人が飯を食えるように、小銭を寄付することになんとなく生きているという事の気休めを感じていきるくらいしかできない。
後は、もう自分勝手に、好きな物を描いて書いて、ラジオを聞いて笑うくらいの人生で十分としよう。
何をしていたって人間は死ぬが
そこに倫理道徳が必要な意味がわかってきた。
死ぬとう事実は人を狂わせる側面もある。
そういう意味では仏教やストア哲学に触れてなければ、僕は大きく道を踏み外していたのかもしれない。
世間的にみれば、もう十分踏み外れれてるんだろうけど。
余談:今読んでる本
👇ちなみに今読み始めた本。中学生でも読めるように書かれた死の本らしいが、面白いかどうかは不明
エピクロスの言う「死ねば自分はおらず、自分がいれば自分の死はないのだかあら、自分の人生に自分の死は存在しない」を解説した序盤まで読んだところ。
余談2:楽天証券のカード積立
カード積立の上限が10万にあがったとかで
楽天証券のキャッシュ⇨カードに引き落とし設定を変更した。
次回積み立てタイミングに合わせるには、12日頃までに設定する必要があるらしいので、必要な方はお早めに。