僕は不安や恐怖心をいだきやすい気質を保っている。
それが役に立ったこともあるけど、これも目的論であり、執着であると気づいた。
不安と目的論
目的論はアドラーの論理で
人間の行動(思考グセも含むはず)には目的があり、その目的があるからその状態を作っている
というもの。
多くの場合「原因」があるから「心理状態」が作られる。と考えがちだけど、この論で考えると、先に心理状態があってその先の何かを得ようとしてるって事。
誰かに助けてもらえた経験
つまり僕の場合だと「不安になりたいから不安になっている」のでありなにか原因があるわけではない。
そして、不安である事によって何かを得ようとしているのかもしれないという事に気付かされた。
ウチは親が過保護だったのでつまりはそういう事だろうと思う。
「弱い自分でいれば誰かが助けてくれる」という思考が根底にあるような気がする。
こういった、子供時分からの思考グセってのは、取り除くのに苦労しそうだけど、弱めるくらいの事は出来る。
不安という起爆剤
もう一つは。将来を心配することで「問題」を作り出して、それを解決するため、というものがある。
僕は昔、ホームレスになるのが怖かった。
家がなくなって、食うものにこまる日がくるんじゃないかと。
自営業、漫画家業を始めた当初はそれがとにかく強かった。
だから「そうならないように頑張ろう」と頑張ったのを覚えている。
不安というのは、未来の事に対して起こる感情である場合がほとんどだと思う。
問題解決型の思考にはある種必須の思考だと思う。
でも、問題解決型はメンタルケアの観点から言えば、最近は後手後手の手法だと思えてるし、あまり役に立たないと思う。
事業を育てるって意味でも、生産性の観点から言えばマイナスだ。ネガティブ感情は生産性を低下させるだろうし、余計な調べ物(不安解消インターネッツ)に時間を取られるし。
不安になる時間、解決すべき問題を見つける時間を作るのは大事だろうが、闇雲に衝動的に不安になるのはマイナスだろう。
たしかに、役に立つ事はあるが、必須の思考だとは思えない。
メンタルケアは何よりこうやって、気づく事が大切。一歩前進できたと思う。
不安という感情への執着心
目的論のおかげでこの不安や恐怖に対する僕のスタンスは、その感情に執着している、と考える事も出来ると思い始めた。
「不安である自分」に執着しているんだろう。
そうする事で、認知が形成される若い時期にはメリットがあったからだ。
でも大人になって、しかも僕は今一年の99%を一人きりで生活している。
そんな自分にとって多くの場合不安感は自分を痛めつけているパターンがほとんどだろう。
不安の正体をさぐれた事で少し変わった気がする。
目的論に照らし合わせて、執着であると認めれば、楽になるんじゃないだろうか。
出来ることは今を面白く生きる事
結局、最後はこれになる。
幸福は状態だ。条件じゃない。
昔、ショーン・エイカーの本だったかで「成功したから幸福になるんじゃなくて、幸福だから成功する(しやすい)んだ」ってのがあったと思う。
「幸福だから笑うんじゃなくて~」ってパターンもどっかで観た。
最近、親に結婚圧をかけられ迷っていたけど、結婚を幸福の条件にしている人は結婚してもうまくいかないだろう。不満グセは結婚で消えるわけではないから。
先に一人で幸福になれる人間にならないと、共同生活は不安定になる。
壇蜜さんが「一人で生きられるようになったから二人でいる決心ができた」みたいな話してたと思う。まさにこれやと思う。
それに、今を楽しく生きられない人は、条件を整えるのも難しくなる。
鬱々としてるやつに人は寄ってきづらい。寄ってくる人はメサイアコンプレックスみたいな人だけだろう。
助ける気があるって事は別に悪いことじゃないが、メサイアコンプレックスの人はその人が本当に救われる事を望んでいない。落ちぶれていてくれたほうが自分の自己重要感を満たせるからだ。
とにかく、他人に依存してはいけない。
自分一人でも平気な人間になる事程、最高の幸福論はない。
ソレ意外のことは、その後についてくるものなんじゃないか。そして、ついてこなくても別に問題ないものなんじゃないか?
そんなことを思った。