これはクソ駄文。
死んだら「無」って本当なんだろうか
疑い始める。
よく聞く話だけど、「死んだら無になる」これはあくまでも意識が人の中で発生しているという事を前提にしている。
しかし、なぜ意識が発生するのかのメカニズムがわかってない。
仮説 集合が意識を作る
僕は一つ仮説を持っている。
「集合が意識を作る」というものだ。
人が意識を持つのは人を形成しているあらゆるものが集まって集合を形成しているからだと思う。
もう少しマクロにするなら、人は大勢で集まるとその集団の意識に飲み込まれて行動し始める。
もっとマクロにすれば、地球や、宇宙も、何らかの集合だ。そこにはなんらかの、意識のような何か、もちろん人間の其れとは別なのだろうけど、似たようなものが発生しているのではないか。と。考えたりしてる。
人は死んだらバラバラになるのだから、話をミクロにする方がいいだろうか。
ミクロの世界は量子力学の領域。量子力学の世界は、過去が未来の観測によって書き換わるなんて実験まである世界だ。
人がわかることなんだろうか。死後の事なんて。
人には理解しきれない物理世界
そもそも量子力学の世界では世界は12次元だとかなんとか言うてるらしい、正直どれが正しいのかわからんくらい色々あってよくわからんが。
とにかく3次元ではないらしい。時間を加えて4次元までなら僕らも把握のしようがあるが、其れ以上になると何が何やらだ。
死んだらバラバラになる。
知覚は、人間の体というベースの上でなりたっているため、人間である以上3次元を知覚するが。
バラバラになったら、そもそも僕らは何を知覚するのか。
知覚という言葉が適さない事はわかっているけど、「無」は正しくない気がしている。
人の思っている意識というものは、後付であることも仮説として存在しているらしいので、そもそもこの意識ベースに捉えるという事自体が誤りなのかもしれない。
なんでも0.5秒前には無意識ベースで意思決定されていて、意識はその行動にもっともらしい理由を後付するらしい。
そうなれば、僕らの自我はある意味「常に少し過去を見ている」ようなものなんだろう。
話が少しズレたけど、
死んだら「無」というのがとらえどころがなく、恐怖を感じるなら。
この知覚を越えた知覚を得るとでも、捉えていればいいんじゃないかと思う。
それが何なのかはわからないけど。
まるで結論のように語られている「死んだら無」というものには少し疑問を感じる。
気休めでいいから死後の概念を持つ事。
とはいえ、追求はしない。
ウィトゲンシュタインも釈迦も、こういった形而上学的なものは考えても無駄だとぶった切ってるらしいし。
それに関しては同意だ。
しかし、僕は彼らのように強くはない。
気休めになるのなら、ハイパーサイエンス的なものだろうが、オカルト的なものだろうが、スピリチュアルだろうが、なんでもいいから妄想の中ででもいいから納得の出来る形で死を捉えて、
その真偽が不確かであっても、信じることで安寧を感じられるなら
それでいい。