人生の苦難は絶対に回避できない。
コントロール不可だ。
最近、難病やら生活苦やらのドキュメンタリーを見てるのだけど
この人たちが努力をしなかったからこうなったとか、そういう話ではもちろんないわけで
これはきっと、もっと小さいレベルでも同じなんだと思う。
例えば、「勉強しなかったから大学進学出来なかった」みたいな話も、これだけ聴くと「努力しなかったから」みたいに聞こえるが、外野からはわからない「勉強しなかった理由」が存在している。
構造主義的に、そもそも人間は考えているのではなく、あらゆる要素の組み合わせの結果自動操縦されているようなもんなのだから本人に対する責任をどこまで求めるのかは謎な部分ではある。
でもこんなこと言ってるとキリがないというか。
犯罪を犯した人を養護してしまうことにもなるので、難しい話だ。
だからマクロの話はスルーしよう。
ミクロ的に考えるとどうだろう。ミクロというより、ボク個人としての話だ。
難病になったり、怪我をしたり障害をおったり、何が何やらわからんがこういうことは当たり前のように起こる。
今現在ボクに起きていないのは単純にボクが運がよかっただけ。
今、ボクは妙な不眠に悩まされているのだけど、不眠は認知症や脳神経疾患の予兆であることもあるらしいし。もうその運も尽きるかも知れない。
わからない。
いつ何が起きるかなんてわからないんだ。
苦難を受け入れるためにどうすればいいのか
メンタルを鍛えるしかない。
鍛えるというか、柔軟性を高めるというか。
いわゆるレジリエンスってやつ。
ボクは、問題解決型の生き方をしてきたと思う。
でも、その中でいつも思うことは「解決出来ない問題が来たらどうすればいいのだろうか」ということだった。
ストア派は「コントロールできないことは軽く見よ」というが、軽く観るのも難しい。
そんな中、仏教や老荘思想はどう語っているのかを調べていて結局、いつものところにたどり着いた。
メンタルを鍛えるしかない。
瞑想なり運動なり、認知行動療法なりなんでもいいのだけど
もっと大きな視点で物事を考えて、受け入れるというか折り合いをつける力を鍛えるしかない。
仏教で言うなら、無常、無我、空と縁起を理解してその事実を受け入れるしかない。
老荘思想でいうならば、道を認め、無為自然に生きるのだ。
抗えぬものに抗っていてもどうにもならない。
抗えぬ事実とぶつかったなら、それを受け入れ、心穏やかに最後まで生きていきたい。
そのためにも日々マインドフルに生きたい。
金があろうが、家族や友達がいようが、苦難に向き合うのは自分の心だ。
これを鍛えないと、どうしようもない。
先日読んだ記事では両足失って登山家の話に、このレジリエンスの重要性が解かれていた。
人間、生きてれば苦難にぶち当たる。
苦難にぶち当たらないと思って生きたり、なんでも問題解決出来ると思っていてはきっとダメなんだろう。
抗えぬことは起こる。
その時どうするか、その時のためにどうするか。
それが最後にやり残したことなんじゃないかと思う。
つまりは、メントレ。メントレ。
なんかメントレって言葉にすると軽いけど
無常の理解と無為自然の精神を身に着けたい。
こういうことはACTでも説かれてるね。
なんでも解決できるわけじゃないから、東洋思想も心理療法もそりゃ進む道は似た方向性になるんだろう。