不安の原点が「お金」から「生き方」へ
最近改めてフィクションにふれる事が自分を楽にしてくれてる事に気づいた。
思えば、
仕事がうまくいかなかった時の悩みみたいなものは昔からあったが
なんやかや、ソレはお金とちょっけつしている悩みであって、もう今更そんな事で悩む事もなくなってきた。
もちろんある程度の生活費は稼がねばならんが、少しずつ資産を減らしてもなんとかなる段階に着ているので、切羽詰まったりはしていない。
もっぱら、最近の悩みといえば、すごく漠然としていて
「生きてきた事」についての振り返りのようなものになっている。
しかし、これは一種の幻想で、いわゆる過去に対するフォーカシングイリュージョンの類だろうと思っている。
俺はこれでよかったのか、という悩み。
それに、これはシンプルにフォーカシングイリュージョンだが、「これからどうすればいいのか」という悩みも存在する。
その中に、あまりこう晴れやかで誇示的生活のような、「資本主義の憧れの象徴」のようなものがなくなってきたのは、清貧的な思想を追ってきた事や、認知バイアスについて学んだ結果が反映されているんだろうと思うけど
最終的には「どう死ぬか」という所に繋がっている様に思う。
なにを経験して、どう死ぬか
過去についてはもうどうにもならないので置いておいて。
未来に対しての漠然とした不安は言い換えると「なにを経験して、どう死ぬのか」
という事になる。
しかし、経験というのはなんだろう。
大雑把に言えば、「人」なのかもしれない。
もちろん。「場所」といった経験もあると思う。
最近は山に興味を持ち始めているし、景色を含め、いった事の無い場所に行くのはいい経験だと思う。金がかかる問題があるが。
後は「人」
ちょうどパレオさんのところに「色んな人と繋がりを保つといいよね」みたいな話があがっていた*1
打算的に聞こえる言葉を使うなら、「社会的な資産も分散した方がいい」という事か。
しかし僕の場合、人といると疲れるのだ。
そこでフィクションが登場してくる。
フィクションは「人」の代替アセットになると思う。
フィクションといっても自伝的なものも含めたノンフィクションも範疇に入れてしまおう。
つまりは、物語性があるものならなんでもいい。
そこには、人でないこともあるが、キャラクターがいる。
一つの人生の一部を切り取っているそれは、何か、「人」という資産を積極的に取りに行けない僕のような人間には丁度いい代替資産の獲得方法になるように思える。
お金の心配をする時間が減っても、何かこう、物足りなさを感じているのは
僕にはあまり多様な生き方ができなかったという後悔があるのかもしれない。
それを忘れさせてくれるというか、擬似的に経験させてくれるのがフィクションで
もしくは、過去の経験談的に言えば、背中を押してくれるのもフィクションだったように思う。
人間の一生は限られているし、物理的な制約も、時間や空間的な制約もある。
そういう垣根も全て取っ払ってくれるフィクションは、癒やしにもなるし刺激にもなるし、
「人」の代替アセットとして悪くない選択肢なんじゃないかと、そんな事を思った。
とはいえ、現実の人とつながるのはそれはそれで良いことでもあると思うので、フィクションに頼り切っていいとは思ってはいないが。
それでも、どうしても人が無理ならそういう生き方もありなんじゃないかと思ったという話。