自分は一体何を遺しているのだろうか。
そういう事に意味を感じてしまうのは、まだまだ、という事なのかもしれない。
偉人と呼ばれる人たちも
その功績が後の世に残ったからといって
死んでしまった今では、その人に何かをもたらしているわけではない。
後の世の人のためになっていたとしても
その人はその喜びを感じる事ない。
それは、すべて、生きていた時にどう感じたかに集約される。
所詮は思い込みだ。
今なにかを遺しても、それは未来にどうであれ、今感じている事がすべてであって
未来にどうなるかによって今が変わるわけではない。
当たり前だが人間には、その人間が生きている間しか物事を知覚するはできない。
何を遺すも遺さないも
別段意味ないのだろうと思う。
今どうであるかがすべてで。
それでも何を遺しているのか、なにかを残せているのかと思う事は
まだこの事実を受け止められず
虚構の中で生きている証拠なのかもしれない。
人間は自分のためには、何も遺せない。他人のために遺したとて、それを感じる事もできない。
生まれて死ぬまでの間。
その短い間に、どう生きるか、どう感じるかがすべて。
そんな大事な時間を Twitterに使うのはどーなんだろうか。