お金は手段。
これはよく聞く言葉だけど、お金の依存性は高いのでその事をつい忘れて行動をしてしまったりする。
際限の無い数字を無用に追いかけても意味がないのはわかっていても、うっかり非合理的にお金を求めてしまう事がある。
「自分は絶対そうはならない」というのが一番危険だろう。
某有名消耗ブロガーも、昔は足るを知る的な書籍を出版していたりするし、仏教僧の書籍を編集したりしていたが、今はどうだろう。
絶対はない。
人間は忘れる生き物だし、環境に左右される生き物だと理解しておくことは大事だと自覚した。
環境をセッティングする
人は環境に左右されやすい生き物だから、金依存者と付き合えば金を追う行き方をしてしまうかもしれない。
逆に、好きなことを追っているグループ、(僕の場合は絵や筋トレや英語や哲学やら)に属すればその方向性を維持できるだろう。
最近はクリプト系のTwitterを観ているせいでこの辺りのバランスを崩してしまっていたように思う。
自分で自分を好きでいられる「自分とは」
さほど長く生きられないのにこれ以上お金を追っても仕方がない。
クリプトが面白いのは事実でも、それより画力や筋トレを追いかけてる方が自分を好きでいられる。
アリストテレスのニコマコス倫理学によると、愛について健全な自己愛について肯定的にかかれている。今の言葉で言えば自己肯定感とか自尊心とかそういうものだとイメージすればいいのだろうか。
クリプトを必死こいて追いかけている自分より、絵を描いたり筋トレしたりしてる自分の方が好きでいられるように思う。
誰でもそうではないだろうか。
人生の多くの時間を、お金の情報ばかり追いかけている自分を好きでいられるだろうか。
僕には無理だ。
人を笑わせたり、目標を追いかけたりしている人間の方に魅力を感じる。
だから僕は、単純な金持ちよりお笑い芸人の方が好きだし、
非効率的だけど毎日店を閉めずに何十年も働いている飯屋の亭主とかが好きだ。
さほど不幸でない事こそ幸福である
「さほど不幸でない事こそ幸福である」
これはショーペンハウアーの言葉。
最近の科学でも「幸福を追うと不幸になるよ」ってな話があるが
ショーペンハウアーの言う通り、生きる意思に突き動かされて生きる事は、今手にしていないものに目を向ける事になるからそれなりに苦痛である。
逆にすべてを手にしても暇で苦しむ。
程々でよい。
今、最悪ではない事を幸福だと思っていれば良い。
そのくらいが一番ちょうどいい幸福だ。
刺激は多すぎれば毒となるし、足りない足りないと刺激ばかり求めていたら満足の閾値が上がってしまう。
程々が一番だ。
多くを得るより、あるものを大事にしよう。
人生はトレードオフだ。
今ある平穏を捨てて、さらになにかを求めるくらいなら
今の平穏を大事にしたい。
どちらかを選べばどちらかが立たなくなる。
極端を求めればその苦しみを背負う。
中庸は中庸で、苦しみはあるだろう。
何にせよ人間は、生きることは苦しいのだろう。
何かを得れば、苦しみから開放されるというのが
そもそもの間違いなのだろう。
だから、
さほど不幸でないことを、幸福と思い。
今あるものを大事にして生きたい。