隠れて生きよ ~いのいぬ.com~

漫画描きが、漫画や絵の事、作品レビュー、セミリタイアや哲学などについて書いてます

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死ぬ以外の逃げ道なんて無いと認めるしかない。

生きていることが苦しい人にとっては

死以外の救いは無いのだろうと思う。

安易に、「解決策があるのだ」と思うから苦しさが増長するのではないだろうか。

この世界は苦しいものだと自覚し、受け入れて、その上でどう生きるかを決めていくしか無いのではないだろうか。

抵抗するから苦しいのだろう。

抵抗するのをやめるには、事実を事実として認めるしかない。

苦しい事が前提であるとすれば、

「生きているのだから、あたり前だろう」と思って対処が出来る。

しかし、苦しい事を前提としなければ

「なぜ自分はこんなに苦しいのだろう」と疑問を投げかける。そこに答えはない。生きているのだから苦しいのは当たり前なのだから。

つまり、この苦しさを消す事はできない。

共存するしかない。

メンタルふにゃふにゃの人の役に立ちたいと思う

僕自身メンタルふにゃふにゃなので

メンタルふにゃふにゃな人の役に立ちたいと思ったりする。

メンタルふにゃふにゃの時は「自分だけが」と思ってしまう

メンタルふにゃふにゃの時って

自分だけこんな状態になってしまっている

って感覚に陥りがちだと思います。

悪いタイプのエゴイズムというか、そういう感じの心理状態。

自分しか見えてないし、他人を自分を疎外している対象のように、メンタルに悪い比較をしてしまう。

なので、

わいもメンタルふにゃふにゃやで!

って人がいると安心したりするんじゃないかと思ったり思わなかったり。

本当にメンタル病んでる時って

自殺や孤独、その他生活などの相談窓口ってプロorセミプロの恵まれた人たちからのお言葉をちょうだいする場所に思えてしまうと思うんですよね。

僕もそうだし。

だから基本僕はメンタル問題は本で勉強するんだけど、本を読むのって僕が思ってる以上に大変らしいので

Youtubeやってみよかなぁとか思ったり思わなかったり。

他にも沢山その手のYoutuberはいるんだけど、なんかみんな恵まれて見えるんですよね。

アレはなんなんだかわかんないけど。

結局僕がやったところで同じなのかもしれないけど。

難しいですわ。

病んでる時はほんと、周りが幸せそうに見えて自分だけ不幸せなんじゃないかって想えてくるから。

何か助けになれる方法は無いのだろうか。

これは、別に慈善的な話ではなく、メンタルケアや哲学のアウトプットは自分自身の助けにもなるので。

最近やってる事

  • 3行ポジティブ日記(3-4日毎)
  • 筋トレ
  • 瞑想
  • ネットを離れて音読

セロトニンとか、意識の矛先を変えるとか、そういう練習。

メンタルも鍛えないとすぐおかしな方向向いちゃうから、ホント生きづらい気質を持って生まれてきたなと思いますわ。

シオランじゃないけど。ほんと絶望した人は生き続ける事こそ最もたる絶望であって、死は暴力的ではあるけど確実な救いなんだよなぁ。

とはいえ、死ぬのも大変そうなので

できればなんとか楽に生きたいと思うばかり。

自分はもう死んでいるのかもしれない

漫画家業というのは人気商売なので

やはり売れ行きが悪くなると仕事がなくなるわけだ。

ピークは過ぎたとはいえ、僕はまだかろうじて仕事はできているけど、

正直なところ

この人気商売を続けるという事が自分の思想もマッチしなくなっている。

漫画家として生きられなくなるなら、死んだも同然。

僕はアイデンティティはそもそも、そこにしかない。

外界との関係がそこにしかない。

やめてしまえば、おそらく死んだも同然だろうと思う。

とはいえ、

絶望はしていないように思う。

人間はただの散逸構造だ。別に、何かである必要もないのだから。

とはいえ

その支えなしに生きていく自信もない。

しかし、合わない行動を取り続けるのもまたストレスにもなる。

絵は描いていたいと思うけど

それでお金を稼ぐというのも疲れる。

しかし

お金がなければ、生活は不安定になる。

不安定を生き抜くほど、僕の精神は立派なものではない。

ほんと、人間というのは

どこまでも不幸で苦痛だらけの中を生きなければいけないのだなと。

楽に死ねる方法があるのならすぐに手を出すだろう。

言葉は不適当かもしれないが、

死ぬという勇気がないから生きているだけなのだ。

この考え方はさほど少なくはないと思う。同じような事を考えている人は少なからずいると思う。

この世界は苦だ。

そこから抜け出すには我欲を捨てるしかない。

僕にとっての我欲とは一体なんなのだろうか。

それすらわからなくなってきている。

僕はもう死んでいるのかもしれない。

お金は手段:では目的はなんだ?

お金は手段。

これはよく聞く言葉だけど、お金の依存性は高いのでその事をつい忘れて行動をしてしまったりする。

際限の無い数字を無用に追いかけても意味がないのはわかっていても、うっかり非合理的にお金を求めてしまう事がある。

「自分は絶対そうはならない」というのが一番危険だろう。

某有名消耗ブロガーも、昔は足るを知る的な書籍を出版していたりするし、仏教僧の書籍を編集したりしていたが、今はどうだろう。

絶対はない。

人間は忘れる生き物だし、環境に左右される生き物だと理解しておくことは大事だと自覚した。

環境をセッティングする

人は環境に左右されやすい生き物だから、金依存者と付き合えば金を追う行き方をしてしまうかもしれない。

逆に、好きなことを追っているグループ、(僕の場合は絵や筋トレや英語や哲学やら)に属すればその方向性を維持できるだろう。

最近はクリプト系のTwitterを観ているせいでこの辺りのバランスを崩してしまっていたように思う。

自分で自分を好きでいられる「自分とは」

さほど長く生きられないのにこれ以上お金を追っても仕方がない。

クリプトが面白いのは事実でも、それより画力や筋トレを追いかけてる方が自分を好きでいられる。

アリストテレスのニコマコス倫理学によると、愛について健全な自己愛について肯定的にかかれている。今の言葉で言えば自己肯定感とか自尊心とかそういうものだとイメージすればいいのだろうか。

クリプトを必死こいて追いかけている自分より、絵を描いたり筋トレしたりしてる自分の方が好きでいられるように思う。

誰でもそうではないだろうか。

人生の多くの時間を、お金の情報ばかり追いかけている自分を好きでいられるだろうか。

僕には無理だ。

人を笑わせたり、目標を追いかけたりしている人間の方に魅力を感じる。

だから僕は、単純な金持ちよりお笑い芸人の方が好きだし、

非効率的だけど毎日店を閉めずに何十年も働いている飯屋の亭主とかが好きだ。

さほど不幸でない事こそ幸福である

「さほど不幸でない事こそ幸福である」

これはショーペンハウアーの言葉。

最近の科学でも「幸福を追うと不幸になるよ」ってな話があるが

ショーペンハウアーの言う通り、生きる意思に突き動かされて生きる事は、今手にしていないものに目を向ける事になるからそれなりに苦痛である。

逆にすべてを手にしても暇で苦しむ。

程々でよい。

今、最悪ではない事を幸福だと思っていれば良い。

そのくらいが一番ちょうどいい幸福だ。

刺激は多すぎれば毒となるし、足りない足りないと刺激ばかり求めていたら満足の閾値が上がってしまう。

程々が一番だ。

多くを得るより、あるものを大事にしよう。

人生はトレードオフだ。

今ある平穏を捨てて、さらになにかを求めるくらいなら

今の平穏を大事にしたい。

どちらかを選べばどちらかが立たなくなる。

極端を求めればその苦しみを背負う。

中庸は中庸で、苦しみはあるだろう。

何にせよ人間は、生きることは苦しいのだろう。

何かを得れば、苦しみから開放されるというのが

そもそもの間違いなのだろう。

だから、

さほど不幸でないことを、幸福と思い。

今あるものを大事にして生きたい。

依存対策:死を想え

さて。

Twitter依存を少しばかり脱却したけど、単純に体調が悪くてTwitter見る事で体力使ってたら原稿が書けないから致し方なくという感じ。

しかし体調が悪い事も相まって

「残り短い人生、こんな事で時間使うのか」と思うのは効果的だと思った。

依存対策に「死を想え」

メメント・モリとか言うけれど、

セネカ鴨長明吉田兼好、釈迦、思想家達は「死を想え」というか、命の有限性をきちんと理解しておけと説いている。

死について考える事は、今に集中するための劇薬でもあり良薬でもあると思う。

死は誰にでも訪れる。

拒むことはできない。

人類が歪めることができない自然法則で、不条理なものだ。

その不条理さを嘆いたところでどうにもならない。

誰にでも訪れる。

この不条理さと向き合うと

今自分がやっていることは、本当に自分がやりたいことなのか、と振り返る事ができる。

少しでも自分の思う通りに体が動くうちに、

自分がやりたい事をやりたいと思う。

ひょんな事から、5年後、来年、もしかしたら明日死ぬ事だってあり得るわけで

Twitterなんてだらだら見てる場合じゃないし

必要以上のお金を求める事もまた無意味だ。

今やりたい事を楽しくやっていればいい。

足りないものじゃなくて、今あるものを数えて大切にしてやればいい

際限の無い欲に付き合って時間を浪費するほど、人生は長くない。

自分は依存症になりやすい人間だという自覚

最近は、いかんせん時間がアレばTwitterを観ている。

頭がおかしくなりそうだ。

しんどいだけなのに追ってしまう。

中毒だろうと思う。

依存になった経験は多々ある

元来依存症になりやすい、脆弱性のようなものがあるとは自覚していた。

MMORPG依存になったのは20歳頃。その後もゲーム中毒のような状態に陥ったことは何度かあった。

今では考えられないが、人に依存した事もあった。

楽しいという事と体力があるという事で乗り切っていたが

ネット依存はそうはいかない。

単純に楽しくないし、ストレスで体がきつくなってくる。

最近はこれにドはまりしてる。

クリプト×Twitterはマジで人を殺せるレベルでやばい気がする。

絵が助けてくれていた

過去の経験においては、依存状態から救っては、22の頃から描き始めた、「絵」だった気がする。

絵を描いているときは頭がクリアになるというか余計なものがどこかに行ってしまう。

瞑想のような状態。ほどよい集中状態のような感じになる。

この状態は非常に楽だ。

特別アホほど楽しいという感じではないけど、精神的に楽になる。

後は、こうやって文字を打っているときも割りと楽だ。

別に生産的とはいえないけど、何かを作り出している時は頭が楽なのかもしれない。

良いことと悪いこと

物を作るってのは苦しいことも多々あるし

現代の依存性の高いメディアやコンテンツに比べると簡易でもなく、割りと厄介な事だと思う。

それでも、ものを作っている方が気が楽なのは

単純にSNS含め依存性の高いメディアは行動に対しての報酬が存在しない事が多いからだろう。

例えば「通知がオンになっている」と確認して「通知をクリックする」と別に何でもないような通知で嬉しくもなんともない。というやつ。

これが繰り返されると疲弊してくる。

それでもたまに嬉しい通知が来たりする。

これを「間欠効果」というらしい。たまに喜びがくる。

これはパチンコと同じだ。

依存させるためには常に行動に対しての報酬があってもいけないし、全くなくてもいけない。

たまにあるから、ずっとそれを触ってしまう。

しかし。

どう考えてもこれは、コスパが悪い。

自分の力が身につかない。

スキルが蓄積しない。つまりレバレッジがかからないので時間給労働よりひどい。

お金も儲からない。

クリプトSNSの場合はうっかり何かが当たって儲かる事はたしかにあるが

労働対価としては殆どの場合コスパが悪い。

Giveawayで1万円相当のトークンが配られてるといって、それに当たるために行った行動が一回なら数秒で稼いだ事になるが

実際は、何時間SNSを観て、同じような抽選に何度応募をしなければならないだろうか。

調査時間も必要だし、場合によってはScam案件を掴まされて損をするなんて可能性もある。

あまり効率が良いとはいえない。

結果的に稼げたから良しとなったとしても、

何にせよ僕が欲しいスキル(画力・筋力・英語力・メタ認知力等)は一切たまらないので金銭以外では時間の浪費だ。

僕にはお金は必要ない。

何より、死にたがりの清貧思考のセミリタイア民なのでお金が増えてもなんの意味もない。

あと3-5年だらだら生きられればよしくらいにしか考えていないし

実際体も保ちそうにない。

残り5年の人生をSNS中毒として時間を潰すなら

駄文でも吐き出してた方がマシだ。

依存対策

依存対策として有効なのは

環境的なセルフコントロールらしい。

つまり。サイトをブロックするとかそういうやつ。

これ、自分で解除しちゃうからあんまり意味はないけど

観た後にログアウトする等も含めて

「面倒臭さ」を追加して離れていきたいと思う。

本当に、依存というのは面倒な事だし、毒だ。

残り少ない人生をドブにすてる位なら、今すぐ死んだ方がまだマシだろう。

「お金」何を蓄えてるのかわからなくなってきた。

何を蓄えてるのかわからなくなってきた。

お金を貯める意味は別に無いのに、クリプトの情報を追いかけてる。

これ意味あるのだろうか。

お金が増えても日本円に出金する事はない。

日本円が必要な状況においては、収入と日本円や株債権で事足りてるから当たり前だ。

じゃあ、なんでこれを貯めてるんだろう。

税務処理というか損益計算が厄介になるだけなのに。

税理士報酬もやたら高いし。

なんのためにいじってるんだか。よくわからん。

ドラマやらアニメでも見ながら好きなように絵やら漫画やら描いてれば十分なのに。

依存症とは恐ろしいもので。

お金の依存性は高いし、SNS、特にTwitterは無限にみてしまう。

依存性の高いものはロジカルに考えられても、ひょんな事でもとに戻ってしまう。

依存の本に、オンラインゲーム中毒から治療を受けて脱却した少年が、ふとしたきっかけでまた元に戻ってしまった話が載っていた。

合理的に考えて、無駄と分かっている事でも、これに抵抗するのは容易ではないんだろうと思う。

自分は依存耐性が無い人間だとわかっているので、ブロックするなりなんなりやり方は色々あるんだから

もう少ししっかり対策をしないといけないと思った。

自分は何を遺しているのだろうか。

自分は一体何を遺しているのだろうか。

そういう事に意味を感じてしまうのは、まだまだ、という事なのかもしれない。

偉人と呼ばれる人たちも

その功績が後の世に残ったからといって

死んでしまった今では、その人に何かをもたらしているわけではない。

後の世の人のためになっていたとしても

その人はその喜びを感じる事ない。

それは、すべて、生きていた時にどう感じたかに集約される。

所詮は思い込みだ。

今なにかを遺しても、それは未来にどうであれ、今感じている事がすべてであって

未来にどうなるかによって今が変わるわけではない。

当たり前だが人間には、その人間が生きている間しか物事を知覚するはできない。

何を遺すも遺さないも

別段意味ないのだろうと思う。

今どうであるかがすべてで。

それでも何を遺しているのか、なにかを残せているのかと思う事は

まだこの事実を受け止められず

虚構の中で生きている証拠なのかもしれない。

人間は自分のためには、何も遺せない。他人のために遺したとて、それを感じる事もできない。

生まれて死ぬまでの間。

その短い間に、どう生きるか、どう感じるかがすべて。

そんな大事な時間を Twitterに使うのはどーなんだろうか。

人間は永遠に満足できないのだという前提を理解する

人間の欲求には際限がない。

人間は永遠に満足はできないのだという前提を理解しなければいけないと、改めて思った。

欲を満たし続ける事はできないし

そもそも欲を満たし続けるなんてのは不毛だ。

どこかで折り合いをつけて、納得するほうがコスパがいい。

お金や過剰な欲求による衝動ではなく

コツコツ自分がそれなりに程よく楽しめる事を続けるのがちょうどいい。

あれもこれもとやっていると時間も労力も足りなくなる。

程々の範囲で、出来る範囲でコツコツ掘り下げていけばそれなりに食ってはいけるだろう。

人の満足はモノや金ではどうにもならない

所詮満足なんて、気の持ちようだ。気の持ちよう。

お金を使わないのは最強だけど、お金を使わないだけで貯まるのだろうかという疑問

「お金を使わなければ、お金は貯まりますよ」

よく言われるし、同意なんだけど。

貯まる=必要額貯まる

ってわけでもないよなぁと思ったり。

結局収入に左右されるので、年収1億の人が年間200万の支出なのと、年収200万の人が150万の支出なのとでは貯まる金額も、その金額がもたらす価値も変わってくる。

使わないのは強いけど

使わない事だけに意識を向けていても、暮らしは楽にはならないのかもしれない。

何にお金を使うか

消費や浪費や投資やらと言われるけど

使わないだけではなく、何にお金を使うことが生活を面白くできるのかというところの価値観を磨き上げる必要があるのかもしれない

ラッセルは幸福論の中で「教養無いと面白い事も減るし、教養がないとつまらん消費的な遊びしかできへんで」と言うてる。

教養は最高の娯楽だ。

そして教養はお金を稼ぐ種にもなる。

つまり、最高の投資材料だと思う。

面白いしお金を稼ぐ力にもなるから、金銭のために無駄に働く時間を減らしてくれるので、時間的余裕も作ってくれる。

ただ使わないのではなく、何にどう使うのかも同時に大切になってくる。

収入が少ない人は、多い人に比べると、お金を貯めるだけでは生活は豊かにも楽にもなりづらい。

それに、お金を使わない事を楽しめるようでないと、使わない事のストレスがどこかで爆発してしまうかもしれない。

バランスを保ちつつ、ちょうどいいラインでお金をなるべく使わない生活をして

お金を使わなくても楽しめる教養力を身に着けておけば、とりあえずお金で困らなずには生きていけるのかもしれない

しらんけど

エゴを捨てるタスク

ダライ・ラマやエーリッヒ・フロムが言う通り「あたえる人が受け取れる人」なのだから

エゴと我欲を捨てるのが楽になるための一番の近道だと思うので

なんとかしようと思う。

出来るタスクとしては仏教の四無量心と菩提心のワーク的なのが参考になりそうだった。

  • どんな他人も自分の親友のように扱う

この辺。

思想を詳しく書かず、まったく掘り下げないとこれだけではなんのこっちゃになると思うけど。

自己とはなにかみたいな話を書いててもキリがなさそう。

時間的、空間的自己の話は今の自分には文章にするのが難しいし、物理学的に解釈したとしても量子力学の範囲だからスピっぽくなるし。

なので、処世術として「他人を親友のように扱う」だけ覚えとけば良いんじゃなかろうかと思う。

全員親友なら、親友の成功は喜べるし、親友ならつまらん事を言ってきても許せる。

仏教では「母親のように」としてるけど、これは現代では合わないとヨガの先生がYoutubeでも話してたし、僕もそう思う。

親友くらいがちょうどいい。

突き詰めれば、「他人も自分」になるんだけどこれは空間的自己の話になるので深すぎるし、それこそ出家僧でも実践するのは難しそうな話。

盗人にも五分の理を

盗人にも三分の理 と言うけど、デール・カーネギーの著書には「五分の理を」となってこれが登場する。

どんな悪人も自分の行動は正当なものであると思って行動している。

もちろんその後反省する事はあっても、行動を起こすという事はその行動に合理性があると判断しているという事

たとえ、他人を不快にしている人であっても、その瞬間は合理的であると判断して行っている。

戦争なんかはその最たるものだと思うが、自分を悪人だと思って戦いを挑んでる人はいない。プーチンも自分の理屈の上で正義を立ててウクライナを侵略している。

これを是とせずとも、その理屈を理解するくらいの事は出来る。

理解出来ないと突っぱねて疲れるのは、誰でもない。自分だ。

疲れて何かが変わるなら存分につかれればいいし、苦しめばいいけど、そうはならない。

合理的な判断と行動を繰り返すためには、精神的な余裕が必要だ。

余裕がなくなれば、それ以外への思考リソースや行動リソースが削れてさらに余裕がなくなる。

他人を親友のように理解するように努める事ができれば、こういった苦しみも多少は減るだろうし

そうすれば自分が出来る事に時間を割ける。

少し話がずれてきた。

親友に嫉妬はしない

半端な親友なら知らないが。

親友の成功なら喜べるものだろう。

他人を親友のように扱えば、嫉妬する心も減らせる。

解釈の仕方は人それぞれ色々あるだろうけど

「他人を親友のように扱う」が実践できれば、嫉妬心はかなり小さくできるはず。

自分ばかり観ているから、持っていないものを持っているものを羨んでしまう。

自分が持っていないものを得た人に「おめでとう」と心から言えるようになれば

苦しさは減るのだろう。

ダライ・ラマの言う「真のエゴイストは利他の実践をする」だ。

世間的な意味でのエゴイストは自分の利益ばかり求めて孤立する道を歩んでいる。真逆だ。

if-then プランニング

心理学の世界でここ数年めっちゃ使えるやん となってるテクニック

  • ~のなら(時)、~する

という文法でタスクを考えておくと習慣化しやすいってツール。

これを使って

  • 嫉妬心が湧いたら相手を親友だと思う

これでいいんじゃなかろうか。

本当は自分だと思うのが最強なんだけど、量子論の知識がいる上に

なんか量子論はスピの人が変な理解で扱ってて誤解されてるのでスルーする。

詳しく知りたい人は 熱力学の散逸構造とか、原子の重さって引く力と押す力がほとんどだって話とか、原子と原子ってくっついてるんじゃなくてめちゃくそ空いてるんやで、とか、人間の体って結構な頻度で物質入れ替わってるんやでとか

その辺を物理学の方を調べてみるとなんとなく納得いくかも。

でもこれを現実に実践するのは、やや現実離れしてる思想になってしまいそうだから、

親友くらいでちょうどいい気がする。

今を楽しみたいからお金を使うという意見について

なんかちょいちょい見るけど

「今を楽しみたいから、投資ではなくお金を使いたい。」

って話。

お金使わないと楽しめないという思い込みではないだろうか。

正直、僕はお金の使い方がわからないし、お金で楽しめる事なんて本当に一時的な事だと思ってるから興味がない。

頻出するアクティブな人たちの「旅こそ至高」の話

たとえば、よく出てくる「旅」。

たしかに旅は非日常を味あわせてくれる

けれど、旅をしなければ不幸せな訳では無い。

特に、海外旅行なんてものは近代ようやく当たり前になったものであって、過去はここまで自由に行き来はできなかった。

それがなければ不幸せだと言うならば、過去の人はみんな不幸せだった事になる。

そんなわけがないだろう。

お金を使わずにも十分楽しめる

所詮幸せなんて、人間の思い込みでしかないのだから。

お金使わずとも楽しむ方法なんて山ほどある。

僕にとっては仕事の合間に机の下に潜り込み、テーブル懸垂をやるのは一つの楽しみだし。

映画やドラマも楽しみだ。

近所の公園をぶらぶら歩きながらPodcastを聞いてる時も楽しい。

特別大金ははかからない。

まだ足りない症候群では

刺激を受けるとそれをまた欲しくなる。

人間の頭でドーパミンが出るからだ。

しかしこれは5分程度しか保たないらしい。

我慢してれば欲は去っていく。

しかし殆どの場合が我慢ができない。

その場で解消できなくとも、妄想に浸る。

その結果、「今」が不服な存在になる。

お金を使わないと楽しめないってのは、単純に「まだ足りない」「もっと欲しい」と思ってるからでは。

お金を使ってもその瞬間しか快楽は得られない。

良い妄想の中では良いことばかりを妄想する。

それに。

人間はいい未来を想像する時は良いことばかりを想像し、逆も然りという生き物らしい。

つまり、今は楽しいだろうなと思ってるそのお金を使った後の幸せや楽しさってのは

実際使ってみるとそうではなかったなという事になるかもしれない。

経験はあるんじゃなかろうか。

僕もある。

所詮、妄想の中での楽しみなんてのは、そんなものだ。

本当に満足を得るなら今に集中するしかない。

淡々と今をこなすのがなんやかんやで一番楽しい。

それが出来ないから不満がたまり、今を使って貯めた金銭を、浪費に使い、また今を不満だらけの毎日にする。

なんの地獄だ。

だが、この地獄は自分の頭が作っている。

金のあるなしではなく。

ただ自分がそういった思考サイクルに陥ってるだけ。

つまらん生き物だね。人間は。

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